道徳があるとは

 

 道徳という言葉がある。一般に「道徳がある」といった場合、人を思いやる心があるだとか優しい心があると言ったような意味合いで使われる。具体的には、電車で老人や妊婦に席を譲ったり、傷ついている人を助けようとしたり、或いは日常生活でもより平易な現場、つまり友人や家族との会話で微かな心遣いを出来る事に対しても言う。

 その様な道徳観というのは、自然法的なものもあれば、学校や家庭の様な教育の過程で学習するものもある。特に、我が国の小学校では「道徳」の授業がある。

 

 「道徳」の授業に関して、私が思い出した事がある。

 その日の授業は、『人を傷つけてしまう言葉をいくつか挙げて、それをどんな言葉に言い換えたら良いのか』というテーマだった。例えば、「うるさい」という言葉を「元気がいっぱい」に言い換える、といったような感じだ。何故その授業を思い出したのかと言うと、普段から悪口をよく言う人間ほど挙手して発言していたのだ。勿論、いじめっ子の様な子の中には、クラスで発言力を持つ子が多いのだから当然ではある。が、その日はそれにしても多かったし、当時の私は子どもながらに何か道徳という言葉の歪さに勘づいたに違いなかった。そんなに挙手して、悪口を“良い”言葉に変えられる賢さと真面目さがあるのならば、どうして普段からしないのかと思ってしまったのだ。

 

 「お前性格悪いよな」と言うと、「いやいや俺は真面目だし優しいから」とよく返ってくる。その通り、君は優しく真面目なのだ。しかし、優しい人ほど、真面目な人ほど、性格が悪い。

 「人を傷つける言葉が言える」と言うのは、相手の欠点や弱点をすぐ見抜ける能力である。多くの人はここで理解を止めている。しかし、「相手の欠点や弱点をすぐ見抜ける力があり、それを傷つける言葉に変換できる」の先には、「その傷つける言葉はよくないので、“良い言葉”に変換する」という第二段階がある。道徳の授業で気付いた違和感とは、つまるところ、優しさは悪意の裏返しという矛盾を孕んだ道徳であった。あの道徳の授業の同級生達は、普段は第一段階で止めてイジメたり悪口を言ったりして、一方で点数を稼ぐ為に「道徳」の授業では第二段階まで進めていたというわけだ。

 こうした経験は無いだろうか。前に会った時より15kg太ってしまったのに、「え、〇〇って痩せてるよね」と言われたら「社交辞令はいらないから!」と思うだろう。社交辞令は第二段階の部分が弱く、第一段階の部分が見え透いている言葉なのだ。

 

 実は、多くの人はこれらの仕組みを理解して実践している。読者の一部は妙に納得したものもいるだろうし、大半はなんだそんな事かと思っていると思う。私はこれを15歳の時に気付いた。だが、そこで止めておけばいいものを、その先に行ってしまったのが松本少年であった。「良い言葉の裏には悪意がある」、つまりどんなに善の言葉も可逆的に悪口にできる事に気付いてしまったのだ。第二段階の言葉を第一段階に還元しようというのだ。

 「勉強が出来る」は「勉強しか出来ない」と言えるし、「可愛い」は「顔“は”」と付けるだけで攻撃になる。古今東西、言葉で戦う職があるように、言葉は諸刃の剣だ。私はTwitterに毒されて随分長いこと悪意ばかり言っていた。そろそろひっくり返して「道徳」的になるべきかもしれない。