第二次南関東大戦 エイプリルフール


「相模原が日本最強の市になるか、滅びるかだ」

相模原市長、アドルフ・ガミハラーは雄弁に演説した。

 


  1930年代初頭、日本は未曽有の危機に襲われていた。日本一の巨大都市、横浜のみなとみらいを発端とした世界恐慌が29年に起こり、大国横浜では失業率が10%を突破。その他資本主義国もその余波を受けて大きく経済が停滞し、大混乱を起こした。敗戦国相模原では暗澹とした空気が流れ始め、三浦半島の大横須賀帝国では京浜急行爆破事件を発端とした三浦事変が勃発し軍部が台頭し始め、先の大戦講和条約に不満があった藤沢では青豚隊がTARITARI党との権力闘争に勝ちファシストによる独裁政権を成立させ、厚木共和国と大川崎帝国はそれぞれブロック経済を始めた。

  そんな折に相模原で政権を握ったのが、アドルフ・ガミハラーである。彼は、多摩美大に落ちた後に日雇い労働者になったり、軍隊に入ったりした後、相模原国家社会主義党の党首となり、1933年遂に相模原の市長となったのである。

  アドルフ・ガミハラーは、早速改革に着手した。リニア高速鉄道の新橋本駅の建設、アウトバーン(圏央道)の相模原開通、三菱電機への投資…。そして、秘密の軍事増強の為に、淵野辺駅商店街でしか使えない「きららカード(またの名をメフォ手形)」を発行。相模原の国力は数年で数倍となった。だが、その裏には夥しい数の虐殺もあったことは後に明らかとなる…。

  その一方で、同じくファシズム国家で、同盟国の藤沢と共に他市侵略にも着手していた。藤沢は湯河原と真鶴を征服し、寒川町と茅ヶ崎を合併した。相模原は国民投票大和市を併合。更に清川村と愛川を併合した。秦野にズデー○ンランドを要求した際には、厚木と川崎と藤沢が介入し、相模大野会談が開かれたが、どうにかして秦野を併合。

  そして、ガミハラーの魔の手は県北の町田市へと伸びていった。ガミハラーはまず長年仮想敵国であった北の八王子社会主義共和国連邦と八相不可侵条約を締結。さらに秘密協定で八王子と共に町田を分割し、八王子の多摩三国(日野市、多摩市、稲城市)と立川の併合を黙認すると取り決めた。

  1939年9月1日、相模原の最後通牒を拒絶した町田市に相模原は宣戦布告。それに続いて、町田の同盟国の川崎と厚木が相模原に宣戦布告し、此処に第二次南関東大戦が幕を開けたのである。

   町田市は世界最強の放置自転車機動部隊と勇将松本猛将軍が健在し、一時は忠生の戦いで相模原の第三歩兵師団を自転車突撃で包囲。壊滅寸前まで追い込む奮戦を見せた。しかしながら、相模原の近代化された軍隊に次第に圧倒され、剰え北からは八王子赤軍が侵攻。勝ち目なしとなり、町田市は降伏。松本猛は川崎へと亡命し、町田は南北に分割された。

   1940年5月、相模原軍は厚木市の要塞線相模川ラインを回避する為に座間・綾瀬・海老名に侵攻。装甲部隊は、突破不能と呼ばれた泉の森を通り一気に座間に侵攻し、厚木・川崎軍の側面を突く形で包囲(泉の森の奇跡)。本厚木は無血開城され、厚木は降伏した。しかしながら、川崎の方面では鶴川の対岸に橋頭堡を築くことができずに手詰まりとなり、生田上空での航空戦でも、カワサキ製の強力なエンジンを搭載した航空機、スピットファイアタケコプター部隊にドイツ航空機は大きく遅れを取り敗北した。またこのとき、川崎市長BAD HOPは、「川崎区で生まれたなら、ドイツ軍機を落とすか、ラッパーになるかだ」と演説し市民を熱狂させた。後にこれは川崎Drift演説と呼ばれた。

   同盟国藤沢も厚木・川崎両市に宣戦布告するものの、大した戦果が挙げられず、藤沢市長スズッキー二(ドゥーチェ)は業腹を煮やしていた。そこで藤沢は独断で箱根侵攻を決意。1940年10月に植民地の湯河原から箱根へと侵攻した。ところが、数多の使徒を跳ね返した強力な強羅防衛線とエヴァンゲリオンによる攻撃の数々。幾多のランナーを苦しめてきた箱根の山道では、”山の神”と呼ばれる駒沢大学青山学院大学の精鋭部隊によるゲリラ攻撃。藤沢軍はあっという間に壊滅してしまったのである。それに怒ったガミハラーは山北町と足柄の侵攻を命じ、箱根の背後である北部から攻撃。最期には、空挺部隊と第十使徒ゼルエルによる攻撃が王手となり、箱根の首都第3新東京市は陥落した。

  1941年6月22日、相模原軍は不可侵条約を破り八王子国境を超え、遂に戦争は第二局面へと突入した。そう、八相戦が始まったのである。続いて、藤沢を始めとする立川や昭島、平塚、海老名なども八王子へ宣戦布告した。

   当初、不可侵を信じていた八王子軍は防衛を怠っており次々と壊滅。相模原軍は快進撃を続け、秋頃には北野と高幡不動を占領。南方方面軍が八王子みなみ野で苦戦を強いられていることから、中央方面軍を南進させて、八王子みなみ野にいた八王子赤軍50万人を包囲し殲滅した。ところが、この八王子みなみ野の戦いの影響で首都八王子市役所を落とす前に冬将軍が到来。冬季装備が整っていなかった相模原軍は壊滅的な打撃を受け、攻勢を停止しさせる他なかった。

  

  一方、南東関東でも戦乱が起きていた。1937年6月に起きた葉山事件を発端に大横須賀帝国と鎌倉を長とする三浦半島統一戦線の戦争が始まったのである。かつて幕府が敷かれた眠れる獅子と呼ばれた鎌倉、観光の力で財力を蓄えた葉山・逗子は横須賀が想定していたよりも粘り強く抵抗し、戦争は泥沼化の一途を辿った。1938年には鎌倉を陥落させるも、鎌倉政府は円覚寺に移転し徹底抗戦の構え。さらに、逗子市長平井龍一率いるゲリラ部隊は切通しを使ったゲリラ機動戦術で横須賀軍を翻弄。また、湘南モノレール(またの名を援鎌ルート)から送られてくる横浜のレンドリースも泥沼化の一因となった。

  これらを解決するために、横須賀軍は藤沢から軍事通行権を貰い江ノ島から奇襲する江ノ島作戦なども練られたが、結局横浜と川崎の猛反発に合い中止となった。さらに横須賀包囲網が形成され資源の輸出が止められると、横須賀は遂に横浜と川崎への戦争を決意。     

  1941年12月8日、横須賀連合海軍の空母機動部隊の空母ドナルド・レーガン、カールビンソン、ニミッツジョージ・ワシントンから発艦した攻撃部隊が赤煉瓦倉庫を奇襲し(赤煉瓦攻撃)、横浜海軍は大打撃を被った。

  この攻撃は宣戦布告が無かったことから、横浜市民は大激怒。市民たちは、口々に「リメンバー、赤煉瓦」と唱えた。横浜市長は12/8を屈辱の日と演説し、横浜は相模原・藤沢にも宣戦布告した。横須賀市長、小泉進次郎は「事前に知らせることなく攻撃してしまった。だからこそ、奇襲攻撃となってしまった。大横須賀帝国万歳!」と演説した。

  

  相模原枢軸は1942年にブラウ作戦を発動。八王子連邦の観光名所、高尾山の占領を目標として進軍するも、山間部での行軍は困難を決めた。藤沢軍の慶應SFC山岳サークルが陣馬山の戦いで帝京大学創価大学軍を偏差値で圧倒するなどの完勝もあったものの、全体的には苦戦し、なんとかして高尾山の麓高尾グラードに到達したところで冬将軍が再び襲来。高尾グラードでは一進一退の攻防が繰り広げられたが、1943年の2月には包囲された相模原軍100万人が降伏。この頃から、相模原枢軸は押され気味となるのだった。

  一方で横須賀軍は快進撃を続け、第二海保と八景島シーパラダイスを占領。更に、港南台まで侵攻した。このとき、八景島シーパラダイスから撤退する横浜軍の司令官出川哲朗は、「俺達はいつかreturn」と出川イングリッシュを言い残し撤退した。しかし、1942年5月のウミホタル海戦で横須賀軍は空母四隻を喪失。また、戸塚侵攻作戦ではサラリーマンのズッ友湘南新宿ラインを使う横浜軍の機動力に勝てず敗北し横須賀陸軍の多くは玉砕した。陸と海で打ちのめされた横須賀軍は1943年になると徐々に押され始めた。

   1943年以降は、横須賀・相模原双方とも次第に横浜八王子川崎軍に押され始めた。1943年7月には川崎・横浜軍によるエルフェンリート上陸作戦が発動。藤沢市江ノ島辻堂海岸を瞬く間に占領。翌月には、藤沢市役所が陥落し、藤沢は降伏した。この一連の作戦で、町田市軍の生き残りが大活躍した。中でも、松本猛将軍の愛犬、ハリーが砲弾を運び大活躍したことは特筆すべきだろう。1943年8月には、八王子赤軍と相模原枢軸軍の戦車部隊が激突する富士森決戦が起き、相模原軍は大敗北し戦車数百両を喪失。相模原の敗北は決定的となった。

  1944年には八王子軍の大攻勢、ハチラクオン作戦が発動。相模原軍は境川まで押し戻され、津久井方面では数十万の北方方面軍が包囲された。さらに、子どもの国作戦とグランベリーモール奪還作戦により町田東部から横浜軍と川崎軍が進撃し、厚木解放作戦により厚木方面からも藤沢から北上してきた横浜軍が進撃していた。このとき、厚木にいた相模原軍は抵抗もせずに降伏。アドルフ・ガミハラーは相模原軍が降伏した後、司令官に電話した。「厚木は燃えているか?」と。

  横須賀戦線では、川崎横浜海軍の巨大な空母艦隊に横須賀軍は敗北。三崎口を奪われ、こちらも敗北が必至という状況になっていた。八景島も解放され、横浜軍司令官出川哲朗は「これがリアルだから。」と金沢区全体に放送し、横浜市民は大歓喜した。八景島シーパラダイスミナミゾウアザラシシロイルカ横浜市歌に乗っておどる姿がメディアに放映された。

  1945年4月、相模原の首都中央区が八王子軍に占領されると、相模原市長、アドルフ・ガミハラーは自殺し、相模原軍は降伏。一方で、横須賀軍は三浦半島打通作戦を決行し、鎌倉軍を蹴散らすなどの奮戦を見せた。しかし戦局は必ずしも好転せず、1945年8月、八王子社会主義共和国連邦の参戦、二つの原爆投下により遂に淵野辺宣言を受諾して降伏。こうして、長い大戦は幕を閉じた。降伏した横須賀市には、防災無線を使った小泉進次郎玉音放送が流れた。

 


「耐え難きは耐え難い。忍び難きは忍び難い。だからこそ、我々は耐え難きを耐え、忍き難きを忍ばなければならない。」

 


  戦後、戦争犯罪人を裁く公開裁判が開かれた。相模原市は戦時中、大量の障害者を粛清していたことが発覚した。その処分監査のトップであった植松聖は裁判中「障害者はいなくなったほうが幸せだ。」「百万人の健常者の死は悲劇だが、百万人の障害者の死は幸福だ。」など崩れた倫理観に基づく発言を連発。傍聴席のダウン症患者達は「ウーウー」と唸り抗議した。また、相模原軍は町田市の市民病院にいる精神病患者を北里大学病院ヤマユリビッシュ収容所に収容し、人体実験や強制労働、日本刀で斬りつけるなど人権を無視したあまりにも残酷な行為を行っていた。これらを指導した相模原の高官たちは横浜裁判で裁かれると、全員冬の多摩川の橋の下に沈められて死刑となった。

  横須賀市長、小泉進次郎も裁判にかけられた。数多の無謀な作戦。史上最悪の作戦と呼ばれた大船作戦。鎌倉での虐殺。国際法を無視した奇襲攻撃。また、神奈川県条例違反のビニール袋禁止は、川崎の数多の工業会社からの批難を浴びた。 これに対し、小泉進次郎は、「これらは仕方なかったので、仕方なくやったまでだ。」とトートロジーで弁明。虐殺と捕虜虐待について聞かれると、「リデュース(減らす)」とだけ応えて黙秘。話にならない為、射殺された。

  大戦が導いた未来は地獄そのものだった。相模原は東西に分割された。町田市は八王子の保護国となった。そして横須賀市横浜市横須賀区へと併合され、藤沢は湘南特別特区として横浜の傀儡国となった。そして、今度は八王子と横浜という二大大国による激突が始まるのだった…。戦後、元川崎市長BAD HOPは横浜市立大学で演説した。

 


「Yo 八王子と横浜 2つのデッカな陣営 の間にある鉄のカーテン 冷たい戦争 此処はまるで冷蔵庫」