親子丼

    「人間は過去を忘れて生きていく生き物だ。」

  うちの中学の体育の先生がこんなことを言っていた気がする。先生は、如何にも昭和の親父という風なおじさんだった。身体はがっしりしていてどこかゴツゴツしていた。そして、真っ黒ではなくて薄い茶色のサングラスをかけていた。妹は、将棋の加藤一二三九段を厳つくした感じということから、「ごつみん」と愛嬌を込めて呼んでいた。

  

  ところで、最近私はバイトで塾講師をやっていて、主に中学生や小学生に勉強を教えている。教科は数学、国語、社会、英語。その中でも国語は割と幅広くやっていて、中学受験をする小学生の国語から中3の国語も教えていた。その中学受験をする小学生の国語のテキストに興味深い物語があったのだ。

  その物語の内容はこうだ。少年が、二人の年老いた幽霊が見えるようになった。テキストに載っていたのは、その二人の年老いた幽霊と少年が人間について語るというシーンであった。

  二人の幽霊は、人間に対して批判的であった。「人間は悲しい生き物」であり、「現実の中でしか生きることができない」と言った。それに対して少年は反駁する。だが、その証拠にと、「人間は最初の記憶を覚えていない」と二人の幽霊は言い返す。続けてもう一人の幽霊が「大人になったらお前も私達が見えたことを忘れる」と言った。その後、二人の幽霊は、「人間は社会で生きていく中で仕事や勉強、欲求の消費など、今の問題に囚われ続ける。お前はそうはなってはいけないぞ」と言った雰囲気のことを言って終わっていた。

   どこかの哲学者が「過去は存在しない」とか「愚かな人間は過去を見続ける」のようなことを言っていたことを思い出した。一般論的には、やはり過去を悪と決めつけることが多いのが事実だろう。いい年になったインターネットでオタクが中学生のときに少し友達がいた話を自慢気にしていたら、多くの人間から揚げ足を取られたり馬鹿にされるのが常だろう。「現実(今)を見ろ」と。所謂「過去の栄光に縋る」というやつだ。

   しかしながら、この作品では過去というものを再評価していたのだ。過去を鑑み、また過去を慈しめと。二人の幽霊はそう言っているような気がした。それはつまり現実(今)という電子画面をジッと凝視し過ぎている私達に「もう少し目を離して遠くの景色でも見たらどうだ」と注意してくれているのかもしれない。科学技術の発展に伴い、我々の思考が益々合理化の一途を辿っている。合理化、合理化と言って目の前のことばかり見てきた結果、「未来」が見えなくなった。ユートピアの発展はディストピアと言うように、合理化の待つ先は非合理なのだ。我々は楽に楽に、合理的に合理的にと進んでいくうちに、過去という現実では価値のないものに対して振り向かなくなったのかもしれない。

   だからといって、過去ばかり考えてもしょうがない。かと言って、現実ばかり見ているのもよくない。ならば如何すれば良いのだろうか。

   我々は常に過去を鑑みる必要はない。同時に常に現実を見続ける必要もない。我々がすべきことは、その過去と現実の両方を行ったり来たりしながら、未来を切り開いて行くことなのだ。

   先程言ったように、私は塾講師をしているのだが、塾講師は正にその例とも言える。塾講師は、私自身の勉強経験から生徒達に勉学を教えるからだ。過去に学んだことを温め直して、生徒に教えこむようなものなのだ。例えば、私は英語が中学の頃特段に苦手だった。だが高校生の頃にその苦手を克服した。私はその経験を活かし、実際に英語が苦手な生徒に勉強方法から英語の知識から何から何まで教えたのだ。 

   つまり、我々は過去と現実両方を見なければならないのだ。我々は過去と現実の狭間を行ったり来たりしながら、過去の事実から演繹される論理によって、現実の客体を認識し世界を描いていくべきなのだ。

  2020年ももうあと一ヶ月と少しで終わりになる。年末に向けて勉強や仕事に専念するのもいい。しかし、大変な一年ではあったが、今年1年をまず振り返ろうではないか。Twitterスマホの写真フォルダ、Instagramなどを見ればいい。どうせ1月に何したかなど覚えているはずがない。何故なら、人間は過去を忘れる生き物なのだから。